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奥泉光とポッポの作品に似ている箇所がある

芥川賞作家である奥泉光の『シューマンの指』と、インターネットで小説を公開しているポッポという人の『大蛇と影を重ねて』に似ている箇所を見つけた。
両作品には〝ピアニスト〟が登場し、演奏中の感覚を言葉で表現する場面がある。

『シューマンの指』から引用

 最初はシューマンなんて弾く気はなかった。それは、そうだろう? あんなときにとても弾けるもんじゃない。ところが、月の光に輝く鍵盤を見たとき、僕のなかに突然、音楽の精霊が飛び込んできたんだ。それは比喩じゃなくて、本当に何かが、ぽんと体のなかに飛び込んできた感じがした。それを弾くしかないぞ! 全身の細胞という細胞が飛び出したようで、僕は声に押されて弾きだした。(中略)
 音楽が遠い所から、天使の翼に乗って、次々と運ばれてくる。なんていったら笑うかい? でも、本当にそんな感じだった。あとからあとから音楽が、平凡ないいかただけど、泉のように体のなかであふれてくる。僕は夢中で弾いたよ。弾くというより、弾かされているといったほうがいいかもしれない。自分が楽器だっていう感覚を、あのとき僕は本当の意味で理解した。それは幸せなんて言葉じゃいいあらわせない、最高の時間だよ。あのときの時間の感覚は……ああ、とても言葉じゃ伝えられないよ。



『大蛇と影を重ねて』から引用

 ――ある画家が記憶を語る――
 気が触れたらしい私は、焦げついた墨の色の奥へ進むように両手で床を漁り、〝怒りを開放した〟と言うほかはない声を出しながら、仰向けになるようにして勢いよく身体を放った。――あのとき神の背中の向こうから、私を窺おうとしている大蛇と目が合ったことが忘れられない。
 それからの私は、これまでになかった感覚、まるで感情の小数点以下までも正確に算出するような力を得ていたのだ。
 あれは、さまざまな感情に建った柱の陰を透視するような力だった。

   
   ○意外な悦び

 僕はピアノを弾いていた。
 不思議だ、これまでとは違う。これは誰の曲でもない……。わがままな気分へ外部からはなにも干渉させず、感覚の指示するままに弾き、記憶にはないほどの快感を味わっている……。
 これまでは譜面を見ながら誰かの曲をそのまま弾いていたが、今の演奏は、これまでにも今後にもなさそうな、事実として〝今ここにしかない演奏〟だった。
 弾き終えると、膝の上に両手を置き、悦びで身体を小刻みに揺らしながらあの光景を思いだす。――ヒレンクターが神に巻きつき、神を絞め殺したあの姿。あれを見てからの僕は、自分の中に、これまでになかった感覚が芽生えていることに気づいた。
 神を呑みこまんとする大口を開いたヒレンクターと、怒りの表情を絶命した先にまで持っていった神。それらが重なり合った形、色、なによりもゾクゾクする雰囲気、それを味わってからの僕は、閃きのコツといったものを感覚で理解したような気がしている。
 今、以前なら見向きもしなかったところに快感が潜んでいることを知った。もう、動きのない一枚の絵でかまわない。それがつまらなければ、その絵に穴を開け、向こうの景色に違うものを見つけるだけだ。
 今日は誰かの旋律には頼らない。今日は、僕が〝なにか〟をした素晴らしい日なのだから――。
 あぁ、気分が良い僕の表情を見たヒレンクターは、舌をピロピロさせて嬉しそうだ。そんなオマエを見ていると、また新たな表現を求め、僕の指は鍵盤を這う。



両作品とも〝帰ってきた感覚、これまでになかった感覚〟を〝ある理由〟で身につけるに至っている。
『シューマンの指』に関しては〝殺人(悪魔に魂を売ったという描写もあり)〟
『大蛇と影を重ねて』に関しては〝悪意を抑えない(罪悪感の無視?)〟

『シューマンの指』では、殺人後に〝音楽が帰ってくる(特殊な演奏能力を身につける)〟
『大蛇と影を重ねて』では、〝悪意の化身?〟である大蛇を身に纏うことによって特殊な演奏能力を身につけ、強姦した女の死後に罪悪感がピークになり、特殊な演奏能力を失う。
これは〝特殊な感覚〟を得るための条件が両作品ともに同じであることを示している。

上に記した『シューマンの指』の引用では〝特殊な感覚が自らに舞い降りてきた、湧き上がってきた〟という意味の描写がされているが、それは『大蛇と影を重ねて』にも見られる。

『大蛇と影を重ねて』からの引用

 内側に備わっている本能のようなものが呼び起こされ、衝動的にその鍵らしい物を右手に取り、強く握って、顎と胸の中間まで持ってきた。
 僕は緊張して、自分の心拍音を容易に確認できる状態になり、胸に〝震える空白〟をイメージする。それに興奮も伴い、今いる部屋を好き勝手にアレンジできる準備ができたような気がした。もし、この部屋にフタの閉まった箱が散らばっていれば、中身を〝かたっぱしから探ってやろう〟という好奇心が溢れている。



また、両作品を読んでおもしろい点を見つけた。
語彙は奥泉のほうが圧倒的に豊富で、文章が全体的に大人びているのだが、上に引用した〝感覚の描写〟に関しては、ポッポのほうが圧倒的に優れている。奥泉の描写は、まともに描写できない人がなんとか感覚を言葉にしようとした文章(中学生でも書けそうな文章)だが、ポッポの描写は詩的な表現と比喩によって〝その感覚が特殊であること〟がよく表れている。

次に別の類似点を挙げよう。
それは登場人物が〝自らに備わっていたはずの特殊な感覚〟が失われるという点だ。

『シューマンの指』からの引用

 修人は身体から「音楽」を失っていた。「地層」は消えて、地面の下は、のっぺりした、一塊の、鉛色の粘土になり、幻想の翼は破れて、もはや埃や雑音しか運んでこない。



『大蛇と影を重ねて』からの引用

 少し前まで、辺りには霧のようなものが立ちこめていた――そんな気がしたが、ひと息つくと、うす白い波の向こうに霞んだゆらめくものを見るための〝想像力の手探り〟が必要なくなったかのように、モヤが消えている。
 僕は満月にはわずかに足りない月を眺め、意識がつねに〝見えているものだけ〟に働いているような気がしていた……。
 暗がりから守ろうとしてくれているようなささやかな月あかりを受け、僕はこの芝生を、色彩の豊かな花畑にも、怨念を敷き詰めたようなどす黒い荒れ地にも変えられずに、となりの女も知っている〝当然の芝生〟として見ている。それはまるで、想像力がどこかへ行ってしまっているようだ……。



ピアニストに特殊な能力が湧き上がってきたり、能力を失ったりする共通性だけではなく、能力喪失後を物語る比喩にも共通性があることがわかる。それは〝そこへ色を付けることができなくなる〟という意味の描写だ。こういう珍しいシチュエーションの中、よりによって同じ意味で感覚を描写するとは、いったいどういう偶然だろうか?
そしてここでも、ポッポのほうが詩的な工夫がされていて、表現力の差を見せつけている。

類似点の指摘を続けよう。
両作品には、登場人物が虚無感のようなものを告げている場面がある。

『シューマンの指』からの引用

 レコードでもいい、演奏会でもいい。何かを聴く。でも、全然感動できない。というか、感動できないなんていう、そんなレベルの話じゃないんだ。そもそもそれが音楽だってことが分からないんだ。音楽だと思えないんだ。電車に乗って聴こえる雑音と同じなんだ。それがどんな気持ちか、分かるかい?



『大蛇と影を重ねて』からの引用

 1
 見ていた僕は、すごく寂しい。でも、それは感じているとは思えないもので、体感を無視したところにある寂しさ。感じるのではなく、寂しさというもののカタチだけを見つめ、そこにありつつも、自分のものとして捉えていないような……。
 頭は働いているはずなのに〝なにかを感じる〟という動物的な本能が塞がっているような気がする……。

 2
 今の僕の演奏は、ごまかしなく暴いた正体を表にひっぱりだした感覚が目的の場所へ効果的な一滴を落とすのではなく、適当な場所へ適当な一滴を霧ふきで拡散して撒くような軽さと曖昧さがある。
 散らばった音たちは、やがて刈り殺されていくだろう。十で固まればその場を凌げるものの、それらはそれぞれの風向きによって仲間割れをはじめる〝それぞれの個〟なのだから。
 すると、鎌を持った姿カタチのないものが〝まばらな個〟に鎌を当て、脅かして遊んでいる……。
 僕はもう、どこでもなく、この場所でイスに座って動きたくなかった。〝すべてがどうしたことでもない〟と思っていたのだから、動く必要もない……。



両作品とも登場人物が〝感動、感じ取ること〟を失っている。特殊な演奏能力を喪失するだけではなく、こんなところまで似ているとは……。
ポッポの引用文を長くしたのは、その描写の中で〝芸術家が作品に魂を込める時の意識〟が巧みに比喩表現で表さていることを指摘するためだ。登場人物が凡才と天才の感覚二つを知ってから、次に凡才が描く表現と天才が描く表現の違いを描写するというのは効果的だ。

ここで両作品に出てくる被害者と犯罪現場の共通点を軽く説明しよう。
両作品の被害者は共に女子高生だ。
犯行現場は共に〝月を感じ取れる場所〟となっている(両作品共に犯行現場で〝月〟という言葉を使っている)。

そしてもうひとつ気になった部分がある。それは両作品の締めくくりと言ってもいい場面だ。

『シューマンの指』から引用

 しかし、修人はどうなのだろう? あのとき、修人は本当にシューマンを弾いたのだろうか?
 これもいまとなっては意味のない問いなのだろう。しかし、なお私は問わざるをえない。問わざるをえないと感じる。

   *
 あのとき、永峰修人は、実存したのか? それとも



『大蛇と影を重ねて』から引用

 液体化した僕は床に伸び、依然として争っている神とヒレンクターを見あげ、たずねた。
「オマエたちは、僕の中のナニモノなんだ?」
 ………………………………………………

 あのとき、僕はピアノを弾いていた。閃きが快感を誘い、神経を悦ばせながら。
 いったい僕は、なにを求めていたのだろう?
 ………………………………………………

    *
 ――あぁ、見ていた寂しさのカタチが、とうとう私に重なっていく。もう、ごまかしが効かなくなる……。
 現在の欲望を満たしても、次の場面はごまかせない。
 どうやら私は、あなたに叱られるのですね……?



二つの引用を比べてみると、じつに〝発想〟が酷似していることがわかる。

(『大蛇と影を重ねて』の引用最後の部分は〝*〟を両作品ともに似た効果を期待して使っているのが引っかかっただけで、それは重要な指摘ではない)

奥泉光『シューマンの指』は発売日が2010/7/23(書き下ろし作品)
ポッポ『大蛇と影を重ねて』の最初の公開日は不明だが、2010/3/4に公開された分に関しては現代詩フォーラムが証拠になるので、ポッポが奥泉の作品を盗用していることはありえない。
奥泉は自身のツイッターで、五月に入っても作品の手直しをしていたと書いている。

ポッポ『大蛇と影を重ねて』は下記アドレスから読める。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=205319&filter=usr&from=listdoc.php%3Fstart%3D0%26hid%3D7944

奥泉は芥川賞作家であり、ポッポは無名である。
しかし奥泉がポッポを真似したかどうかはわからずとも、ポッポと同じようなことをしようとしてポッポに負けていることはわかった。表現力のレベルで奥泉の負けは明らかだ。
(ただし、奥泉のはミステリー?としておもしろく読める)

某巨大掲示板にて、ポッポに対する意見として参考になる書き込みを見つけたので引用する。

173 :マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/23(木) 01:03:35
分かっていないな。ポッポの演奏は空白なのだ。演奏が始まったときにぷっつりと切れて空白になる。
気軽に音楽を過程に沿って描写できると思った奥泉の敗色は色濃い。



176 :マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/23(木) 01:06:41
例えば遠近法の空間を創造してもらいたい。画家が空白を書くとき、それは確実に意味がある。
遠くに置かれる空白は、それ自体は何もない空白だとしても輪郭によって奥行きを与えられた空白になる。
奥泉の作品は空白をごちゃごちゃと描いて遠近法の体をなしていない。それと比べると、ポッポはそこに到る段階でプッツりと切って再度描きはじめる。



180 :マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/23(木) 01:10:08
音楽は文学では描けない、という決定的な問題を前にして、その周辺を描くことによって、確かに奏でられたはずの音楽に意味合いを与える。
なぜポッポが括弧を使っているか、絵画の比喩を出しているか。それを読み取れない奴には明らかな奥泉の敗北を理解できない。
逐時的に書けると確信した奥泉は程度の低いバルザックでありモダニストであるポッポはそのようなことはしない。



250 :質問者 ◆uOAKVsxcZE :2010/12/23(木) 13:38:40
ここでも盗作問題について語られてますね。2ちゃんねらーはこういう話題が大好きのようで(2ちゃんねらーに限らずかな)。
私は『シューマンの指』の全体を把握していないので、盗用疑惑についてはこれ以上意見するのをやめておきます。

奥泉は非現実感覚の捉え方と、感覚を文章に表す技量が凡人のそれで、
ポッポが描いた「感覚描写や詩的表現力」を上回る根拠を提示できていないというのが実情のようだ。
奥泉は作品に登場させた天才芸術家の閃きを「本来は文章では描写できないもの」として諦め、
「音楽の精霊が飛び込んできた」「天使の翼に乗って運ばれてくる」という神がかり的な現象を示す比喩で逃げ切ろうとしている。
「文章では描写できない」という諦めはポッポにもあるだろうが、二人には決定的な違いがある。
奥泉は文章そのものに芸術性を備える企みを放棄したが、ポッポは文章そのものに芸術性を備える企みで音楽に対抗している。

大江健三郎とオルハン・パムクの対談では両者が「私は常に詩人として小説を書こうとしている」と言った。
シューマンは「音楽の勉強に疲れたなら詩人の作品を読んで疲れを癒しなさい」と言った。

詩的な表現とは、音楽で得られる感覚的な響きを文章から得られるように描いたもののことだ。
朔太郎や中也が生きていた時代と違い、詩を読める人間が減った現代では、
ポッポの作品の読み方を理解している人が少ないのは当然のことだ。
おそらくポッポの作品を楽しめない人は、普段から詩を積極的に読み、何度も感動するという経験を積んでいないのではないか。
そういう人はわかりやすく、具象的に描かれたものからしか何も得られない。

「まるで感情の小数点以下までも正確に算出するような力を得ていたのだ。
 あれは、さまざまな感情に建った柱の陰を透視するような力だった。」

これは詩的ではないが、芸術的センスの性質を示す比喩として素晴らしい。
凡人と天才の感覚の違いに作者本人が気づいていることが見受けられる。
「音楽の精霊」「天使の翼」と言って終わるだけの奥泉とは能力が違いすぎる。
ポッポの作品を「好きではない」と言うのは勝手だが、「才能がない」という発言は適切ではない。
「大蛇と影を重ねて」は並みの芥川賞作家に書けるような安い代物ではないからだ。



255 :質問者 ◆uOAKVsxcZE :2010/12/23(木) 21:58:45
ポッポ本人は自己陶酔型であるかもしれない。
しかし作品に描かれている人物は、欠点のある人間として客観視して書かれています。
あの作品の内容で「自己陶酔型のありがちな作品」やら「自己満足文学」と言い張るのは、
あまりにも無知な判断ではないでしょうか。
そもそもあの作品の趣旨は、芸術的センスをどこまで言葉で表すことができるかという挑戦だと思います。



『大蛇と影を重ねて』は、ポッポが読書もまともにしていない段階で初めて書いた作品らしい(執筆時間は2時間前後のようだ)。
〝お上手な文章を書く力〟は現時点だと奥泉の勝ちのようだが、芸術家としての勝負ではポッポの勝ちと言えるだろう。
同じ状況を描いても、表現力が違うとここまで差が出るという事がよくわかる内容だ。
2010年の三月辺りに2ちゃんねるで「奥泉の描写ならポッポなんて子供扱いだろうw」という書き込みがあったのを覚えているが、逆の結果が出ている。「ポッポの描写なら奥泉なんて子供扱い」が正解だった。
これは奥泉にとって痛い出来事だ。

某巨大掲示板では、新人賞に落ち続けている人がポッポ批判を続けているようだ。勝敗はこのブログで明らかなのだから、わざわざ深夜にまで自演丸わかりのアンチを虐めなくてもいいのではないか?
一般的に人が起き始める時間帯から、たまにスレを上げてこの事実を報告すればいいだけだ。中身の無い子供の悪口に付き合うのは時間の無駄だと思ったほうがいい。相手はポッポの力量に嫉妬しているだけの情けないワナビなのだから、反論する価値はない。多くの〝まとも〟な人達は、アンチに付き合わずスルーしている事だろうが、アンチにとっては悔しくてスルーできないらしい。

○なぜ殺されていないんだ?まだ。
ここは創作家を目指す者のつどう板なのに、このぽっぽとかいうバレバレ自演のゴミ人間は自作の糞を自己宣伝。

しねよ。

○この病気の倭崩れは死なないで生きているつもりなの? 迷惑しかかけられない板汚しの分際で。
さっさと消されろ。皆が公平に投稿しているのに、糞ぽっぽ(但し中身はゴミおっさん)だけ手前の噴飯ゴミの自己宣伝できると思うな。

きえろ。穢多野郎。

○病気の廃人ポッポ。殺されればいい自作自演で板汚し。ひどいバカ。消えろ。


こういうアンチの発言を見れば、〝犯罪者予備軍〟がポッポを否定しているというのがわかる。
(そういえば、アンチは全て名無しの投稿であり、発言内容の幼稚さや嘘言癖から考えて自演濃厚だが、ポッポに対して正当な評価をしている有識者は複数いる。昔からコテハンを名乗っている人が最低二人は確認できることで明らかだ)

奥泉はインタビューで、

言葉そのものが音楽になっている。そんな小説を書きたいと思っていました。


と語ったが、「その勝負で完璧にポッポに負けている」と言っておこう。

実際、奥泉がポッポの真似をしている可能性はないと思う。
なぜなら、ポッポの文章を見たあとでは自分の文章が恥ずかしくなり、発表する気が失せてしまうだろう。
ポッポの文章を知らないからこそ、どや顔で出版できたのではないだろうか。

PS.ポッポさん本人かと思われる訪問ログがあるのですが、このブログを見ているならコメントをお願いします。作者本人の意見が聞きたい所です。

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意見を一つ

私は「シューマンの指」を読みました。確かに似てますね。
真似したとしても不思議ではありませんが、奥泉光さんの傾向から考えれば真似せずともこういう作品を書いても不思議ではないと思います。

登場人物の意識描写に関してはポッポさんの方が迫力があり、詩情豊かであり、本当に特別な感覚を持っている事が伝わりますね。
奥泉光さんもこの描写には感心するかもしれません。

どうでしょう

あまり似ているとは思いませんが・・・。

ポッポ氏の作品は行間から悪い意味での書き手の若い自意識、青くささ、人生経験の乏しさが煩く立ち上ってくるので(たぶん十代そこそこなのでしょう)、彼(彼女?)の才能は明らかではあるものの個人的には好きではないのですが、上記に引用された「シューマンの指」の引用部分「だけ」と並べてしまうと、ポッポ氏のほうが1000倍以上、上手に見えますね。最初から勝負になっていないというか。

奥泉さんの冒頭引用部分は、読んだだけで嘔吐感を覚えました。これ読んでからポッポ氏の引用部分を見ると、実に素晴らしく見えてしまいますね。まあ部分引用だけでは分からないのが小説ですけど。ただ、ポッポ氏も(世間的な意味でいうところの)物語を構築できないなら世に出ることはできないでしょうけれど。

初めまして

ポッポの小説を読んでみた。
少年の不安定さを効果的に利用してるね。
挿入されてる主人公以外の語りはなかなか深くて考えさせられた。
こういう特異な小説もたまには良いかな。

川端康成よりセンスありますね

2ちゃんねるで川端康成の文章を引用をした人がいて、それをあるコテハンが酷評したんですよ。
それで川端の文章を叩くってアホですか、みたいな流れになってその人は叩かれたんですけど。
叩いてる人も川端の文章のどこが良いのか説明できないみたいです。もし川端と知らなければ中学生が書いたポエムと同じレベルとして見られるって事ですよね。
ポッポを叩いてる人もそんな感じじゃないですかね。
ポッポの方が川端より深いですし。理解できない凡人が多いのも無理は無いかと。

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